出せない手紙を書くように、心で送る言葉を綴る:S



筆をとっては置く。逡巡を繰り返すのはらしくない。
一呼吸して、再度挑むように便箋へペン先を走らせようとして、歪む文字を幻視する。
慌てて便箋から距離をとり見れば、黒点がひとつ。
いや、点自体は無数にある。今作った点は一つだけ。先程から同じことを何度も繰り返しているのだ。
もう諦めた方がいいのではないのかと己の中で溜め息を吐く誰かがいる。
振り払うように奥歯を噛み締め、ふるえる指先に力を込める。
呆気なく万年筆は砕け散る。ペン先が転がったために便箋には黒い筋。
手からしたたり落ちる黒い液体は机の上を汚す。インクの匂いが鼻につく。
自分に怪我はないものの時間は巻き戻らない。机はべったりと汚れ、便箋は使いものにならない。
惨めな思いが苦い味となって口の中に広がる。
口角が引きつり震える。笑いたくも泣きたくもない。今どんな顔をするべきだろう。

「――――」

手の中の壊れた全てをごみ箱へ。汚れた便箋で机を拭う。
多少ましになるかと思ったのだが黒を広げるだけの結果に終わる。
便箋は捨て、傍らに常備されている濡れたふきんでまず手を拭い机をふく。
白い布が黒く染まる。それでも机の汚れは落ちない。
よく見れば自分の手もまた汚れ出していた。
拭っても拭っても汚れた布では綺麗にはならない。

指の間に、爪の間に、指紋の中に、入り込んだ黒が黒が黒が、まるでとれない。

癇癪を起こすように手を机に叩きつける。
一度、二度、三度。勢いは増して行く。
自傷行為のよう。
あるいはただ、病的なまでに黒を毛嫌いしている。
血が流れれば黒が塗りつぶされると本気で信じ込んで、そしてそれを望んでいる。
一心不乱という言葉が似合う淀まない動作。
赤の方がましだと思ったところで血液もそのうち黒く変わるのだ。
頭の隅で理解しながら手の平に住みつく黒を払う。打ちつける。消えろと念じる。

どれほど机に手を打ち付ける行為に没頭していたのか、気が付いた時には肌寒さを感じた。
覚えはないが窓が開けられていた。そのためだ。
風の音が気に触り窓を閉めてたが、止まらない。もっと近くに音の発生源があると考えて思い至る。自分の呼吸だ。
荒い息遣いに驚きながら少し笑う。
深呼吸して自分の手を見ればいまだに黒い。手を洗いに行くかと部屋を出かけて振りかえる。
千年は持つと言われた耐久性だけはいい愛用の机は消えていた。
首を傾げる。
新しい物を買わなければならないなと考えながら、何かしようとしていたことを思い出す。
何かをしている途中だった。途中であるのならば最後までやらなければ。
心臓が不自然に大きな音を立てているのを認識しながら、それでもまずは手を洗わなければと部屋を出る。

部屋に戻った頃にはやらなければならないことなど何もない。
黒い汚れと一緒に洗い流してしまったのだ。
言いたかった言葉は心の底、不可侵な澱と同じ。
沈み込んだ真実とやらは意識の表層へ浮上することはかなわない。望まれていないから。望めないから。

本当にそうなのかは本人にすら分からない。






出せない手紙を書くように、心で送る言葉を綴る:K



軽く口ずさむ。古い歌だ。完璧に歌える者はほぼ居ないだろう。
だが、ワンフレーズは誰もが聞き覚えがある。そんな歌。
ところどころ記憶はあやふやで仕方なしに分かるところだけ歌っていると変なところで繰り返しになる。
場所が違うなと感じながらも次のメロディーも歌詞もちゃんとしたものを思い出せないから勝手に繋げる。
初めはなんてことない思いつきで唇に乗せたものの今ではなかば意地になってしまった。
軽く歌っているのだが、やめ時がみつかない。
本当はどんな歌だったのか想像をめぐらして意識の空白を確認するだけ。
幼い日の記憶など曖昧だ。自分が覚えていなくともなんとかなると高をくくっていたこともある。
一人で生きて行くことなど考えたこともなかったのだ。きっとお互いがそうだったと信じている。
信じてどうなるものでもないとしても、今の現実を否定するようにしばし懐古に浸る。今日だけならばと己を甘やかす。
伝えることがどうあってもできない。心も言葉も。

手の中にあるのは空の瓶。ただのゴミ。漂流物。
けれど、手紙が入りそうな大きさだ。
そう認識してしまう自分を情けなく浅ましいと感じる一方で期待して喜びを見出したのも確かだ。
届かない言葉はいつだってある。欲しい想いは手を伸ばしてもつかみとれない。
だから、都合よく楽観的に全てをとらえる日があったもいいだろう。
思いこみでもささやかな贈り物だと思いたいのだ。

今この時だけは真実は不要。
明日には捨てるかもしれないゴミをただ抱きしめていたい。
思い出せない歌のように。
言葉にできない願いのように。

繰り返し唇からこぼれる調べが誰の耳に届かなくとも、瓶の返礼を。





2008/06/11

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あとがき

あえて、細かいことは書きません。誕生日話です。


タイトルは散文から。