たった一人の貴方に贈る11の言葉:覚えているのに忘れた名前


口に出そうとして、こわばる。
呼べない。
あんなにも頭の中で呟き続けていたのに、口に出せない。
長い長い間封印したために、いざ箱から取り出そうとしたら鍵を失くしてしまったように。
あるいは、錆びついた鍵穴には正規の鍵すら入りはしない。

涙が出る。
嗚咽は簡単に漏れるというのに言葉は出ない。
呼びたい名も呼べない。
こんなにも覚えている。
思い出は褪せることなく美しい。
最後の顔は覚えてはいない。
罵倒は耳にこびりついて離れないのに。
一番古い記憶は二人で一緒に優しく過ごした誕生日。
誰の邪魔もなく二人だけでささやかに祝った。
これでいいのだと笑い合った。
何があっても一緒だと約束しながら眠りについた。
幸福な思い出。
褪せぬ記憶。
どこにも記録されない思い出。

涙を流す。
誰を思っているのだろう。
もう一人の己が嘲笑うように侮蔑のこもった言葉を吐きかける。
聞きたくない言葉ばかりをわざと知らしめる。
こちらの気持ちを構いもしないで、とサガは掠れた声で叫ぶ。嘆く。

響く冷笑は己のものであるのに酷く遠い。

手探りで思い出をかき集める。
愚者が賢者に教えを乞うように。
願うように捧げるように。

行きついた先は広い草原。
あるいは以前は草原と呼べた場所。
荒れ果てた場所。
けれども、サガは覚えている。
ここが美しい花畑であったことを。
冠が作れるほどに白詰草が咲き誇っていた。
他にも様々な多年草が混沌として絵を描き終わったパレットのような有様だったのだ。
それは焼き払われた。いや、焼き払った。
理由は何だっただろうか。
発狂しそうな心を抑えるためか、見せしめだったのか。
わからない。
記憶にも残っていない己の行動。
サガは歯噛みするしかない。
しゃがみ込み触れる土に嘆こうとも時間は戻りはしなかった。
痛烈な現実。


沈み込むサガ。
微かに朱の差した目元にまた自分との言い争いでもあったのかとアフロディーテとシュラは顔を見合わせる。
少し前と比べれば随分とここ2、3日は落ち着いていると思っていたのだが、
嵐の前の静けさだったのかとシュラは嘆息する。
だが、暴れ出しもせずただ静かに落ち込むサガに言葉はかけづらい。
ヒステリーを起こしたのならば、それがどちらのサガであっても気絶させてしまえば済むが静かな今はそうもいかない。
アフロディーテは心配なのか、サガの反応を伺いながら、自主的に薔薇を活けておいた花瓶を示す。
外界と遮断しているように見えてアフロディーテの声が届いているらしくサガは瞳だけでそれを見る。
三種の薔薇を主役にカスミ草やレザーファン、柔らかなカーネーションが脇を固める。
ボリューム感があり華やかな花は教皇の間において変に浮いている。
アフロディーテにとってはそんなことは些事なのだろう。
シュラとしては思うところがあるもののサガが何も言わないのなら、あえて咎めもしない。
目の前でデスマスクとそのことについて大激論を見せ付けられたせいもある。
ツッコミをいれてはいけないこともある。
経験からシュラはそう考える。

「――アフロディーテ、薔薇以外の花でも栽培できるか?」

この所、様々なことに鈍った反応しか返さなかったサガが事務的なこと以外で自発的に言葉を発したのは久しぶりだ。
「栽培?」と小首を傾げるものの「調べれば、育てることは可能だと思う」と頷く。
サガは思案するように目を閉じる。
時間にすると瞬きほどだろう、玉座から音もなく立ち、歩き出す。
アフロディーテとシュラがただ見送っていると振り向きもせずに「ついて来い」と言った。
よく分らないままに二人はサガに従い歩いていく。

教皇ではなければ知らないであろう、入り組んだ道の先、古びた石の扉。
今にも朽ちてしまうのではないかというほどに劣化が進んだ扉をなんてことないようにサガは開く。
アフロディーテは息を飲む。あまりに悲惨さに。
シュラは教皇の間の横、というよりも奥に存在したスペースに驚いた。

「こんなところがあるのか」

漏れたシュラの呟きにサガは静かに頷く。
「殆どのものは知らない場所だ、お前達も公言する出ないぞ」サガの言葉に二人は即座に了承する。
わざわざ二人を連れて来たこの場所に何かあるのだろうとシュラは考える。
実際、サガの様子はなんだか違って見える。
アフロディーテは悲しげに地面を見ている。
何をやったのかは知らないが、不毛の地のようになっている広い空間。
遮蔽物のない所だ、植物は元気に育つだろう。
「もったいない」そう思った。
中心といえるほどまで進み、サガは振り返りアフロディーテを見る。

「アフロディーテ、ここを花で埋めることは可能か?」

サガの言葉に理解しがたいといった表情のシュラとは逆に意思を組み取れたのかアフロディーテは大きく首を縦に振る。
先程の会話がこれの布石だったのだろうと納得したのだ。
弾んだ声で「植えて欲しいものは?」とたずねる。
しばし考えた後「好きにしてくれて構わない」とサガはポツリと言う。
言葉とは裏腹に何か願っているようでアフロディーテはじれったく思う。
助け舟を出すようにシュラが「もともとはどんな植物が植えられていたのだ?」と
初めからこんな有様ではなかっただろうと当て推量であるが真実をとらえる。
サガは過去に思いを馳せるように、柔らかな表情で「様々な花があったな」と呟く。
「特には?」と続けて聞くアフロディーテ。

「クローバーが多かった」
「……そういえばサガは四つ葉の栞を持っていたな」

シュラの言葉にアフロディーテも思い出す。
四つ葉のクローバーを押し花にした栞をサガは持っていた。
結構古いものだった記憶がある。

「私ではない」

表情を翳らせサガは首を振る。
地雷とまではいかないが、あまり良い話題ではなかったらしい。
シュラはサガの端的な言葉を聞き返す。
意外であったからだ。

「アレはサガのものではなかったのか?」
「あぁ」

サガの言葉を、私の物ではないと解釈して問うシュラに本当に存在しないのだと片割れに悲しくなる。
知っているのは自分だけ。
それすら、砕け散っている思い出の中でだけ。
薄硝子のオブジェの破片。
見つけるのは困難で集めても元には戻らない。
血を流してからでは遅すぎるとしても、手探りで欠片を探す。
光を当てれば反射して発見が容易であったとしても、目隠しで手探りでしらみつぶしに探す。
大怪我に至らないのは偶然、大きな破片に当たらないから。
無自覚から忌避しているのかもしれない。

「それでは、三日後までにここを花で満たそう」

アフロディーテは手を広げて誇らしげに言った。
三日後という言葉にシュラが気が付いたような顔をするがすぐに表情を戻す。
サガはアフロディーテの言葉に「早いものだ」と感嘆する。
それを受けてシュラも頷く。

「この広さをか?」
「黄金聖闘士に不可能はない。そうだろ、シュラ?」

「もちろん、手伝ってもらう」と言外に言われている気がしてシュラは脱力するが、
今回に限っては断りたいとも思わないので素直にアフロディーテの言葉に相槌を打つ。
自分達だけでも彼の誕生を祝っていいだろう。
サガがしていることに比べればささやかな贈り物だ。
この荒れ果てた大地が彼の内面であるのなら、それはあまりに悲しい。

「サガは三日後まではここに来ては駄目だ」
「あぁ、邪魔をするつもりはないよ」

笑った顔は以前のままの懐かしい微笑。サガはサガのまま。
アフロディーテは嬉しくなる。
黒髪のサガも嫌いではないがどこか温度差を感じるのだ。
皮肉気で独善的でどこか優しさはサガのまま。
その差異が気に掛かってしかたがない。
デスマスクは「人間、綺麗なところばかりで作られるわけがない」と軽口を叩いたがアフロディーテは割り切れない。
サガがサガのまま心を痛めずにいてくれるのならば、それに越したことはない。

この日はそのまま以前は草原であった現在、荒れた空き地を後にした。
翌日、アフロディーテが昨夜の内に取り寄せた苗と種と球根、肥料・土その他の諸々の器材を運び込んだ。
表面の土を除去し肥料を混ぜた栄養のある土を戻す。
シュラに種を渡し「ここらへんに半分ぐらい撒いておいてくれ」と言い、
アフロディーテ本人は土がついた白詰草の固まりを間隔を置き植えていく。

「いいのか?こんなので」

大雑把なアフロディーテにシュラは手を止めずたずねる。
一度、双魚宮の薔薇の手入れに駆り出された時は数百倍は神経質な注文をつけられた。

「いいのだ。……サガは以前のようなここが見たいのだろう。完璧な庭園が欲しいわけではない」

アフロディーテは溜め息を吐くように笑う。
目を細め白詰草の根についた少々乾燥してしまった土をいじる。

「シロツメクサは雑草なのだよ、シュラ」
「そうなのか」

園芸に興味のないシュラにはアフロディーテの言わんとしていることが通じない。
「つまりは、別に手入れされていた訳ではないのだろう、ここは」と地面をアフロディーテは指す。
他の苗を植えていきながら「別段荒れていたわけでもないだろうが」付け足す。
間が開いていて寂しくもあるが、昨日に比べれば色とりどりの甘い風景である。
いつまで保つのかわからない場所ではある。
花は咲けば散るのだから。
弱いものは手入れを怠れば病気になる。
人や世界と同じともいえる。
物事を維持するのは大変だ。
磨り減るのは心だけではない。
悲しい現実。けれども真実。


自身満々にアフロディーテはサガの前に立ち扉を開ける。
開かれた先にあるのは、モノクロの世界ではなかった。
色のついた景色。
黒のキャンバスを原色で埋める。
ランダムでありながら統合された一区画。
多少、時期外れの花もあるがどれも元気に咲いている。
呆気にとられるサガにアフロディーテは出来をたずねる。

「――なんだか、無理を言ってしまって悪かった。……ありがとう」
「いいや、私達からのプレゼントだ。受け取ってくれ」

サガの言葉に嬉しそうなアフロディーテ。
つられるようにサガも心から微笑むことができた。
シュラも二人のやりとりにホッとした。
日を照り返し葉がキラキラと光る。

「8月あたりに、種を撒きに来たいのだが良いだろうか?」

「本当はまだまだなのだ」とのアフロディーテの言葉にサガは頷く。
思いついたようにサガは「デスマスクにも連れてくればいい」と言う。
現在、聖域不在の友人を二人は頭に浮かべ、苦笑する。
「趣味じゃないだろうな」とアフロディーテとシュラは目と目で会話した。
サガは遠くを見るように花畑を見渡す。
空は青く高い。
頭上の光は眩しいほどである。
以前であれば儚く砕けそうな雰囲気があったサガだが、今日は生命力が甦っていた。
何にも負けずにそこにある。
太陽が落ちてきても一人、地上で生き延びているだろう。

短く挨拶をして、二人は静かにその場から離れる。
サガの様子によかったと頷き合いながら。

吹く風は厳しい。
冷涼であれば肌に突き刺さり、温暖であれば灼熱が肌を焼く。
それでも花はまた芽吹く。

しゃがみ込み、四つ葉を見つける。
本来白詰草は三つ葉。
ゆえに、四つ葉は幸運をもたらすと囁かれる。
花言葉は約束。永遠の象徴として結婚式で薔薇の花と一緒に投げられる。
サガは摘みとらず、葉の表面を撫でる。
忘れることは出来はしない。
覚え続けることがいくら困難でも。
懐かしい歌のように聞こえだす小鳥の鳴き声をに耳を傾ける。
花の香りに惹かれてきたのだろうか。

立ちあがり、見渡す。

声には出さず、唇はえがく。「カノン」と。
こわばりもせずに。
「おめでとう」と心の中でつけたした。





2006/06/02

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あとがき

懺悔していない後悔してないレアケース。
13年間、誕生日は基本的にはサガは憂鬱。
そのぐらいの方が、アフロディーテ的にはサガらしい。
基本生活を黒に任せても誕生日あたりだけ主導権奪取。

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