心が迷子になってしまう日
心が迷子になる日。
誰でもある、ある日のこと。
かき分けた木々の先の岬の入り江。
流れる風は僅かに残る熱気を遠くへ連れて行く。
澄みわたる広い世界へと抜けていく。
忘れた古い歌の音のように。
静かに水面に揺れる影。
微かに聞こえる鳥の声。
雄大に広がっていく波音。
その中で凛と静かな気配。
徐々に沈んでいく太陽。
それは一種の結界。
閉ざされているのか、守られているのかも不明瞭。
アイオロスは目を細める。
キンと鋭い頭痛。
警告音のようだと思った。
初めの頃は感知出来なかった。
今は痛いぐらいに感じている。
ここには何かがいる。
水と戯れもせずカノンはただ浅瀬で立ち尽くす。
誰かを待っているのか、何かを考えているのかアイオロスにはわからない。
唇から漏れた言葉は古代ギリシャの哲学者、その有名な台詞。
清涼な響きには鈍い自嘲があった。
砦をより強固なものとする。
いつか、囲む檻と同化する、そんな予感がした。
そんな日は来ないで欲しいと縋るように思う。
届きはしないだろうから尚のこと。
向きの変わった風に気が付いたのか、カノンは振り返りアイオロスを視認する。
無機質な表情が緩むように笑みに変わる。
それは太陽の光に反応して開く花の変化に似ていた。
喜ぶでも悲しむでもなく、淡々とカノンは海面を泡立てることなく岸にいるアイオロスの元へ向かう。
海水がカノンの進行の妨げにならないように気を遣っているような、そんな違和感。
アイオロスは自分が囚われそうになるあらゆる可能性を黙殺する。
西日が世界を焼くように感じる。
淡い想いも一緒に焦がす。
眩しげに目を細めるアイオロスに破顔するカノン。
カノンは完全に岸に上がり砂浜を踏む。
腰までしか海には浸かっていなかったが、
カノンの髪は濡れたようで、しっとりとしていて見た目にも重さがあった。
「いつから居たんだ?」
「来たばかりだよ」
答えながらアイオロスは渡そうとするタオルに躊躇う。
カノンはふと歩みを止め身体の力を抜く。
温かな風に一瞬にして乾く服。
まるで海に入っていたことが嘘のように、痕跡が消える。
あらざる光景。
けれど、目の前に存在する現実。
それを受け入れるカノンの表情は逆光になって見えない。
アイオロスは湧き上がる不安を振り払う。
不安に思うことなどないと思い直す。
カノンにとっていいことならば、自分にとっても悪いことではない。
「ありがと」
アイオロスが持ったままのタオルをカノンはかすめるように受け取り髪を拭いた。
髪だけは乾いていないらしい。
カノンぐらいの髪の量ならば優しく叩くように拭くべきだというのに、
無造作に髪をタオルに擦りつけるのでアイオロスは手で制止させる。
さすがに、見てはいられなかった。
不満げなカノンを近くの流木に座らせカノンの手からタオルを取りアイオロスが拭く。
髪はしっとりと全体的に湿り気を帯びて、微かに潮の香りがする。
タオルではカノンがやったように確りとやったところで限界。
自然乾燥させると絡みつくようにカノンは潮の香りを纏うことになるのだろう。
多少考え、言葉が喉につっかえ上手く出せないながらにアイオロスは言った。
「人馬宮に来ないか?」
アイオロスの言葉をカノンが理解するのには時間がかかった。
咀嚼し反芻する。
一言でいえば、そういった行為は禁忌中の禁忌。
もし、誰かに見つかったら。もし、教皇に知れたのなら。
「もし」が起こってはならない。
分母がゼロであれば何をしたところで起こりえないことは起こりえない。
今の今までカノンは見つからないというために色々な対価を支払った。
気を付けるというのは生半可ではない。
本来は存在する分母を無理矢理ゼロにして誤魔化し続けているのだから。
ゼロだからいくら掛けてもゼロだけれども、ゼロを維持する大変さは誰にもわかりはしないのだ。
けれども、カノンにとってアイオロスの誘いはあまりに魅惑的。
全てに疲れていた。
「今日は平気だと思うんだ」
「今日は?」
アイオロスの言葉にカノンは顔を上向きにして後ろに立つアイオロスを見る。
タオルをたたみアイオロスは頷く。
「みんな、多分もう寝てる。神官や雑兵は居るけれど、いつもよりは少ないからカノンなら余裕だろう?」
カノンは不敵に笑い、立ち上がる。
「当然」と言い放つと歩いていく。
アイオロスも一緒に歩きだす。
「もう寝てるって、はや過ぎないか?」
カノンは首だけ振り返り、地平線に落ち切った夕日の名残を見ながら言った。
海面に未だに鈍く光が残っていてどこまでも美しい。
吹く風は夜の冷気には及ばないが、昼の熱は残ってはいない。
苦くなりそうになる笑いをアイオロスは軽やかなるものに止める。
「あぁ、今日は特別なんだ」
そう言うと、カノンは何も言いはしなかった。
本当に特別であるのは今日ではないと続けそうになる言葉を抑える。
見ないふりをしていることを直視させる必要はない。今はまだ。
明日がいつか気付いていようといまいと、こうして二人で居られている今日は、間違いなく特別と言える。
今まで起こらなかったことを起こしているのだから。
アイオロスが今まで何回かカノンを誘ったことはある。
どれも「きっと」大丈夫だろうといった曖昧な基盤の上。
以前のカノンであったなら、アイオロスが絶対に平気だと言っても誘いに乗りはしなかっただろう。
警戒もあった。信用をした後でさえ疑念は持っただろう。
カノンが作った幾重もの防御壁をアイオロスが越えていた昨日であってもカノンは誘いには乗らなかっただろう。
今日だったから、きっとどうしようもなく心が揺れたのだ。
明日は特別の日になるから。
誰にとっても。
だから、カノンはきっと塗りつぶしたいと思ったのだろう。
無意識か意図的か、そんなことは関係ない。
悲しいぐらい単純に目を逸らしている時間が長ければ心は落ち着くのだろう。
そんなカノンにアイオロスは何も言わない。
あるいは掛ける言葉が見当たらないのかもしれない。
真心以外は所詮意味のない物でしかない。
アイオロスもカノンもそのことをよく知っていた。
暗い森を抜ける。
カノンはあくまで無音であり存在は空。
アイオロスも気をつけてはいるがカノンほどではない。
雑兵、あるいは聖闘士ですらアイオロスが残した足跡を探るのは至難でありほぼ絶望的である。
カノンの足跡は、空を掴むことは何人もできはしないように、片鱗すら触れはできない。
目の前を歩いているカノンが冗談のようだとアイオロスは感じる。
自分一人だけが見ている幻覚だとしても納得がいくほどの存在の希薄さ。
だというのに、足取りに不安定さは一切ない。
そんなブレた思考があってはこれほど完璧な足運びはできない。
呼吸をするのを意識するよりも先に気配の使い方を覚えた、そんな風な慣れ方。
染みついた動作に違和感を感じないだろうが、とても特異なことだ。
小枝一つ踏んでしまって、立てた音が世界を終わらせることをカノンはきっと知っているのだ。
アイオロスはカノンよりも上手くできないと己を恥じも慰めもせず、あるがまま受け入れる。
全く同じ立ち位置に別の人間が居られるはずがない。
居たのならば、どちらかが――どちらともが、無理をしているだけだ。
二人は無言で森を抜ける。
サガとアイオロスであるならばにこやかに話していても問題はないと言うのに。
それを選ばない。
アイオロスはカノンをカノンとして人馬宮に呼び、カノンもカノンとしてそれに望んで答えた。
カノンにとっては一種の賭け。
バレてしまったのならば、それまで。もういいと思ったのだ。
その場を取り繕えた所で、話は教皇の所まで行くだろう。
そうしたら、どうしたところで終わり。
つまらないそんな終わりを自分は望んでいるのかとカノンは頭が痛くなるのを感じる。
どうあったところで取れない頭痛の種だ。
カノンは受け入れることを止めた。
それは自分の痛みが増すだけで、誰のためにもならないのだと知ったからだ。
終わりがあるのは誰にでも。だから、それは受け止める。
その理由の諸々を考えるのを止めた。
思考の停止は迷いを断ち切ることとは違う。
けれど、あまりに泣きたくなるので色々と受け入れるのは止めて、はねつけることにした。
今更不平不満をぶちまけるのは正しくない。
だとしても、言葉は止まらない。
溝を開く行為としても、嘆きは止め処がない。
全てが白日の元に晒された時、失うものがないように消極的に捨てて行く。
恨みごとを吐いて死んだヤツのことを誰もきっと気にはしない。
勝手なカノンの論法。
片割れには通じるだろうが、きっとアイオロスには通じはしない。
嬉しさを感じる心を潰すようにしながらも舞い上がる心をカノンは感じた。
二人は無事に人馬宮の居住スペースに落ち着く。
危うい場面は一度もなく、アイオロスが言った通りに全体的に人の出入りも少ない。
世界で一番安全な場所である十二宮内に居るという緩んだ精神では、カノンを見つけられるはずがない。
世界一危険な場所で集中力の限りに目を皿にしても気付けない者は気付けない。
実力の差ではなく、才能の差。
それなりの者であれば、当たりぐらいはつけられるかもしれないが視認するのは困難どころか不可能。
ソファーにくつろぐカノンからは先程までの存在感のなさはない。
小宇宙は抑えられてはいるが、生身の人として目の前にちゃんと存在している。
息をするよりも楽に気配を無に出来るとはいっても使いどころをカノンは心得ていた。
サガでも多分ここまでの隠密技能をカノンが持っているとは知らないのではないのかとアイオロスは睨む。
知っていたのならば、今のような神経質な態度はとりはしないだろう。
こんな力を見せられては信用する他ない。
アイオロスがサガにあえて伝えはしないのは、目の前で見せられなければ理解できない種類のものでもあるからだ。
目の前にいる人間の唐突な存在の消失に戸惑わない者はいない。
そしてカノンは多分、アイオロスが思うより一手上。
唐突に消失しないこともできるのではないのかと、アイオロスは思っている。
カノンならば、相手に消えたという事実すら認識させずに消えられるのではないのか。
そんな夢想の確認はとってはいない。
意味のないことであり、友人だからといって手の内を全てさらけ出すのは論外だからだ。
アイオロスはカノンに風呂を勧める。
拒絶されてもそれはそれでよかったのだが、案外あっさりとカノンは頷いた。
が、アイオロスにとって思っても見ないことを口に出す。
「一緒に入らないか?」
「え、あー……。ご飯を作っているから、カノンが先に入りなよ」
「飯なんて別にあとでもいいのに」とカノンは唇を尖らせるが「すぐ、出る」と言い残し風呂場へ消えた。
反射的に断ってしまったが、
別に言い訳してまでカノンと一緒に風呂に入るのを断らなくてもよかっただろうにと、
アイオロスは自分の行動に疑問符を投げる。
答えは出そうにないので早々に止めて、出かける支度をする。
殆ど使う機会はないが、いつでも使えるように綺麗にしたバスケットに飲み物、ジャムを入れていく。
そうしていると、風呂から出たカノンが髪を拭きながら無防備に出てくる。
「うわっ、本当に早かったね」と驚くアイオロスに「オレは有限実行だ」とカノンは得意げに笑う。
アイオロスの行動を見てやることを理解したのでカノンは自分がやるとアイオロスからバスケットを奪う。
笑いながら「任せるね」とアイオロスは引き下がり、自分も風呂へと入った。
カノンはアイオロスは簡単にパンを入れて持っていこうと思ったのだろうと、ジャムを見て予測を立てる。
冷蔵庫を見ると簡単な食材はあったので、手早く調理し、サンドウィッチにすることにした。
ジャムをどかしその分、ボリュームのあるサンドウィッチを詰める。
そうこうしているとアイオロスも風呂から出てきた。
髪を拭くのもおざなりにバスケットにサンドウィッチを詰めているカノンにアイオロスは呆れる。
無防備に着崩れた服装と濡れた髪、さらされたうなじはあくまで白い。
ふと思い、アイオロスはカノンが使っていたタオルを受け取るだけ受けとって、脱衣所へ戻って行った。
疑問に思うものの、作ったサンドウィッチをなんとか詰め込むカノン。
すぐに戻って来たアイオロスの手には新しいタオルとブラシが握られていた。
カノンが「別に構わないのに」と言うもののアイオロスは笑顔でカノンの髪を拭きながら梳かしていく。
邪魔にならないように行われたのでカノンも文句が言い辛い。
チラッと瞳だけでアイオロスを盗み見ると意外に真剣に髪を梳かしていた。
サンドウィッチが詰め終わりカノンは満足したのだが、いつもとは違う自分の頭の重さに気がついた。
アイオロスを見ると、嬉しそうに用意していたらしい手鏡を渡される。
覗きこんでカノンも表情を崩す。
気が付かなかったが、いつの間にか髪の毛を左右に二つで結んでいたらしい。
その上、所々に三つ編みがほどこされている。
待っている間、暇だったのだろうか。
気が付かないカノンもカノンだが、変に細かいアイオロスもそれはそれでおかしい。
風呂上りで火照っていたため着崩していた服をカノンは改めてきちんと着る。
夜風がもう外を満たしているはずだから。
常人であれば風呂の後に出歩くのは、湯冷めするからよろしくはないのだが、
カノンとアイオロスは風呂上りに森の木の上に行くことが数えるほどではあるにしても、約束事としてあった。
そこだけは二人の秘密の場所。
二人だけの誰とも共有できない内緒。
色々な話をしながら、バスケットに詰めた食べ物を食べる。
バスケットに詰められるものは、その時によってマチマチ。
夕方頃であれば、お菓子の詰め合わせであることも過去にはあった。
二人だけの約束事としてバスケットは秘密の木の上なのである。
もう随分と日が落ちてから時間が経った。夜の帳は落ちきっている。
月は空へ上りきり、星はなりを潜めている。
見事すぎる月だった。
森も一種の結界だとアイオロスは思った。
閉じたような空気。
制止したように感じる時間。
永遠というものが本当にあるのならば、この時みたいなものだろうと容易く想像できた。
木の上、本来であれば遠くからも発見できてしまうのでとても危険な場所。
ここはカノンの世界と同義の場所。
生い茂る葉が二人を隠してくれる。
吹く風は夜のものだった。
緑の香りがする。
雲は月を避け、今日は空から退場したようだ。
月は星もない独り舞台で美しく輝いている。
心が迷子になってしまう、不安定は嫌い。
カノンの言葉はとても真摯。
初めて会った時から変わらずに真心を伝えている。
口で言う言葉とは心が裏腹であっても、常に真実を伝えている。
淋しいという代わりに瞳で訴え、楽しいと怒ったふりをして言う。
揺れ動く心の振り子が嫌いで持て余した日は、ただ静かに手紙を書くように言葉を紡いだ。
その在り方にアイオロスの方こそ乱された。
日付が変わる。
頭上には満月。
忘れてしまったのだろう、今日を教える。
それは、残酷なのかもしれない。
忘れていたかった、今日なのだから。
アイオロスはそれでも言葉を発することを選ぶ。
「――ありがとう」
君が生まれ、そしてこうして、ここで出会えたことに感謝をしたい。
軋む枝。戸惑うカノン。伏せられた顔と相反するように瞳はこちらに向けられた。縋るように伺う。
カノンが嫌がるから「おめでとう」は言わない。
けれど、惜しみのない祝福を捧げよう。
2006/05/30
海界top
あとがき
カノンにとって、これが一応最後の誕生日。
(この年、スニオン岬→海界へ一直線な流れ)
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