たとえ一緒にいられなくても、幸せを願いたいんだ



決まったことは仕方がないし、今更何も言えない。
それでも、悔しく遣る瀬無くて。
痛みを抱くのは筋違いだけど、良かったとは言えない。
グダグダと悩むのは煩わしい。
答えは元から決まってる。
後はただ伝えればいいだけ。


ミロは読み途中の雑誌を投げ出す。
カミュから借りたものなので、折れ曲がっていたら怒られるだろう。
読む気がないし、暇つぶしにもならなくなったのだから仕方がない。
興味のないものに割く気力はない。
明かりの点けられていない部屋では元よりよく内容も解らない。
カーテンの隙間から漏れる光に昼あたりかとぼんやりと考える。

ガラスのテーブルには零れた牛乳が白い模様を作っていた。
拭くより取り外して洗った方が綺麗になるだろうなとぼんやり思いながら見ていた。
床に敷いた虎の毛皮と熊の毛皮は所々零れた液体が固まって寝心地が悪い。
貰った時は汚さないように気をつけて生活していたのに、見る影もなく汚れが溜まっている。
ここ一週間はコップを落としたり、食べているつもりで口に入っていなかったりが多かった。
自分の宮では油断してしまうらしい。
カミュやアイオリアの所で食べている時はそんな無様な真似はしないのに。
荒れ果てた部屋。片付ける気力はない。何もかも面倒だった。

「自分の部屋ってのは心象風景、だったか?」

唐突に響くカノンの声。
夢かと思った。
幻聴かと。
優しい白昼夢。

「随分とだらしない格好だな」

呆れるように見下ろすその顔は紛れもなくカノンで、抑えられて断たれた気配は冗談みたい。
全く気付かなかった。気付けなかった。
少し屈んだカノンの髪は床に転がっているミロの元まで届く。
キラキラと綺麗な蒼。
電気もない、ほんの少し光射す部屋。
褪せることない色は夢ではないと教えてくれる。本当に存在している。

「カノン」

呟くとカノンは興味深げに一瞬ミロを凝視して、頷く。
「それがどうした」と言いたげに。
ミロはカノンの毛先に触れる。消えていかない感触がある。

「声はかけたぞ?」
「……ごめん、寝てた」

嘘だが、嘘でもない。
意識は寝ていた。
今ですら起きているか怪しい。
触れた髪の感触に夢ではないと分かっていながら。泣きそうなほどに夢心地。

「まぁ、いいけどな。……ちょっと汚れすぎだろ」

カノンの言葉にミロはハッとする。
部屋の惨状に思い至る。
それをどうにかする気力は無さ過ぎたのだが、客観的に人に見せられたものではない。
よりにもよってカノンにこんな状態の自分を見せることになるとは情けない。

「片付け手伝ってやろうか?」

そういってカノンがたいして物も乗っていない汚れたテーブルを指差すのでミロは慌てる。
カノンにそういことをして欲しかったわけではない。
会ったら話をしたかった。
もう会えないのかもしれないと落ち込んだけれども、今目の前にいるのだから、いくらだって話せるはずだ。
何一つ告げたい言葉も伝えようと思った気持ちも発することは出来なかった。
ミロの葛藤を知りもしないでカノンは掃除する気であるらしい。
なんとか、ミロは「待ってくれ」と言葉を吐き出す。
少し逡巡したカノンは「ぞうきん持って来い」と一言。
バネ仕掛けの人形のように呼び動作なしで起き上がり、台所の方へ駆け出す。
ミロは先ほどまで脱力していたのが嘘のように身体には精気が満ち、空回るほどに心拍数は上がっている。
すぐにぬらした雑巾と台布巾、乾いた未使用のものを両手に抱えて持ってくる。
バケツとかも必要だったかと頭をかすめた時ミロは毛皮に躓いた。
両手が塞がっていたので、お約束のように顔面から着地した。

「お前はどこの鈍臭い子だ」

呆れたようなカノンの声。
なんだか、カノン過ぎて涙が出てくる。
ずっとこんな声が聞きたかった。
会いたかった。
アイオロスは平気だと言っていたがもうダメだと思っていた。
カノンが聖域を選ばなかったなんてことを認めるわけにはいかなかった。
実際にカノンは海にいて、十二宮にも聖域にも何処にもいない。
それは事実。
誰にどう気にされたところで目の前にカノンがいないのはどうしようもない。
全てがどうでもいいほどに心を持っていかれていた。
魂が抜けたように無気力。
理由が分からなかった。理由なんて無かった。
カノンが聖域を捨てたのが悲しかったのか、許せなかったのか。裏切りとなじりたいのか。分からない。
ミロは顔を上げる。
しゃがんだカノンが不思議そうな顔をしてミロの手からこぼれた雑巾を拾っている。
責めたいわけではない。信じたくはなかった現実は真実で、変えようがないらしいがミロの気持ちもまた変わらない。
本人を前にしなければ分からなかった気持ち。
単純なものだった。思ったままにミロは口に出す。
聖闘士ではないとか海闘士であるとかは欠片も関係ないと誰に対しても言い切れる。

「オレ、カノン好きだなぁ」

単純なありのままのミロの本心。失言だったと焦る心もミロにはない。
驚いたように目を見開いたカノンはミロを凝視した。
照れくさそうに目線を逸らした後、柔らかい綿菓子のようにすぐに消えそうな甘さを滲ませカノンは笑った。
どこか痛みを覚えるような幼さのある顔は初めて見たもので衝撃に心臓を掴まれた。
赤くなり撃沈するように俯くミロの頭をカノンは軽く触れる。

「ありがとう」

カノンの言葉に「うん」と相槌を返すミロ。
優しげな声が耳にくすぐったくて顔の赤みは暫く引きそうになかった。
しみじみと、それこそかみ締めるようにカノンが好きだとミロは思った。
倒れたままのミロに気まずいのかカノンは少しだけ肩をすくめた。
何を言われるのかとミロが少し怯え混じりに見上げると照れたようにぶっきらぼうにカノンは言った。

「掃除ぐらいで、そこまで喜ぶなよ」

ミロはしばらく爆笑した。




「だいぶキレイになったな」
「お世話をおかけしました」

取り合えず毛皮は退避させ、テーブル周り他諸々カノンの指示の下に二人で片付けた。
カノンがいつの間にか洗ってくれていたらしいクッションカバーは清潔で気持ちが良くて抱きついてそのまま眠ってしまいたくなる。

「どうして荒れてたんだ?」

不思議そうに訊ねられ、ミロは脱力する。
「掃除嫌いか?」と失礼なことを言われたので「整理整頓が下手なだけ」と答える。
基本的にはミロは大雑把なのだ。
ここ最近の荒れようは、ただ単に心ここに在らずのためなのだが。

「カノンが心配だったんだよ」
「お前は人を心配すると部屋を散らかすのか?」
「別にそんなことはないケド……何も手につかなかった」

カノンは理解できないようでクッションを抱えてゆらゆらと揺れるミロをいぶかしげに見る。

「言っとくけどさ、カノン」
「ん?」
「生き返ってハジメマシテ!今日が!!」

思い当たって苛立ったのかミロは揺れるのをピタリと止めて叫んだ。
「あぁ」とカノンは頷き「今生もよろしくお願いします?」首を傾げた。
ミロは絶叫しながら転げ回った。

「埃をたてるな」
「なんか、色々言うことあるだろ!」

子供が駄々をこねているようなミロにカノンは一言「あるか?」と首を傾げる。
思わずミロは意気消沈するように床に崩れ落ちる。
「騒がしいな」と呆れるようなカノンに嬉しい脱力を覚えつつ呟く。

「勝手に海闘士やったり、聖域来ないし。会えないし」
「…………アイオロスは黄金聖闘士みんな納得済みだと言っていたぞ?オレの処遇」
「うぅ」

女神命令なので納得しなければならないだけで、心から認めたわけではない。
ミロが聖闘士とカノンを認めたのだ。
それなのにどうして海闘士をやるのか。分からない認められない。それを喚き散らしても何も変わらない。

「会うならいつでも会えるだろ。生きてるんだから」
「うぅ」

その通りではあるのだが、ミロは教皇から海界への使者に命じられることはない。
理由はミロ本人が分かりすぎるほどに分かっている。
海界に行ったのなら海闘士に喧嘩を売るに決まっている。
ミロとしては海闘士に横からカノンを掻っ攫われた形なのだ。
言っても言い足りない文句がある。
表面上とはいえ和平を結んでいるのだから、火種を送り込めるはずがない。
分かっていながらもミロは器用に取り繕う事は出来ない。

「ちなみに聖域には何回か来てるぞ」
「なんで……会って……」
「やっぱ、気まずいし」

少し目をそらすカノンに思わずクッションを投げつける。
それは力が入っていなかったのかカノンに当たる前に床に落ちる。
微妙な静寂が場を支配する。
カノンは咳払いをして怒ったように不貞腐れているミロに言った。

「でも、ミロならこんなので友達やめるととは言わないでくれると思ったんだけど……」

戸惑い気味なカノンに平気そうに見えて、顔を合わせるのに相当の躊躇があったのだと分かった。
何も気にしないなんてことはないだろう。
それでも、自分を信じて会いに来てくれたのだと思い、ミロは勢いよく答える。

「あぁ、大好きだ!」
「……ありがと」

嬉しそうにはにかむようなカノンに色々と自分がこだわっていたことが馬鹿らしく感じた。
カノンが生きていて、自分も生きている。
時間もあるのだから、憂いなど必要ない。
ミロは笑って断言する。

「聖闘士じゃなくても、それでもカノンのことは嫌いにならない!当たり前だ。ずっと好きだ!」

臆面もなく告げる言葉にカノンは床に転がったクッションをミロに投げつけた。結構全力で。
それを顔面に受け仰向けに転がるミロ。
頭を抱えるようなカノンにまずいことを言ったかとミロは思ったが、
自分の発言の何処が悪いのかが分からないので訂正はしない。
「お前らはどうして、そう恥ずかしい台詞を吐くんだ」との呟きがカノンから聞こえた。
ミロは「お前ら」という表現が気になったが聞き返しはしなかった。
それがやぶ蛇になることぐらい予想がつく。

「カノンは、幸せ?」

カノンの髪を手に取りながらミロは訊ねた。
目をそらさずに「そうだな」と肯定したカノンにもっとこだわるかと思った自分の中のわだかまりも溶けた。
本当は悔しかったし遣る瀬無い。
文句も言いたいし納得なんて出来ない。
けれど、それより何より。
カノンが幸せならいいかもしれないと思ってしまう。
アイオロスから「カノンが望んだこと」だと聞いてから胸の中で反芻していた思い。
本人の口から聞いたことでスッキリした。
一緒に過ごしていくのだと思った。
そうじゃないから子供のように拗ねた。
過去も何も関係ない。
今、隣に居て欲しかった。

「そっか。なら、仕方ない」

ミロは俯きながらかすかに笑った。
カノンは「ありがとう」と言った。
謝りはしないのが固まりきった決意の為なのだろうと思った。

「今日はこれから?」
「いや、特に予定はないけど」
「泊まってかない??」
「お前がソファーで寝るならいいぞ」
「うん、うん。いいよ。カノンはベットで寝て」

すごい勢いで首を縦に振るミロにカノンは苦笑する。
夕飯はどうしようかと考えて、今が何時かと始めて時計を見た。
まだまだおやつの時間帯で自分の時差ぼけ振りにミロは驚いた。

「夕食の買出ししよう〜」
「面倒だな」
「このミロが腕によりをかけた傑作を作っちゃる!」
「食べれるのかそれ?」
「今、侮ったな?……カミュからは独創的だと絶賛されているぞ!!」

胸を張るもののカノンの顔から懐疑は消えなかった。
これは一度食べさせるしかない。
料理なんて甦ってまともにしていないので、
台所が使えるかどうかが一番の問題だなと考えつつもミロは元気にカノンを引っ張り街へと駆け出す。

奇跡があるのだとするとそれは生き返ったことではなく、こういう日常があることだろうとミロは女神に感謝した。
数時間前の気分が嘘のように天気と同じように晴れ晴れとした顔でミロは呆れたような顔で付き合ってくれているカノンを見る。
カミュが「結局、なるようにしかならない」と言っていたのを思い出す。
敵の幸せを願うのは間違っているだろう。
けれど、大切だと思う人の幸せを願うことは間違ってはいない。

海闘士など関係なしにただ願う。
たとえばそれが許されないのならば裁かれてもいい。
そう思えるほどに強く。
カノンが幸せであればいいなと。ただそれだけを思った。






2007/01/05

海界top




あとがき

直球で告白し即座に流される。
それに凹みもしないのがミロ。

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