差し出された手は見えなかった


嫌な夢を見たのか、温かなぬくもりに触れたのか、分からないまでも倦怠感があった。
最悪な目覚めは最悪な一日しか連れて来ない。


食事を前にして考える。
胃を満たすだけならば簡単。
娯楽とするのならば、難しい。
生きることは食べることでもあるけれど、とても億劫。
誰かのために何かをするなら、大義名分があるから、楽。
自分を生かすことは「死にたくない」という思いがないと出来ない。
死にたいとは思わないけれど積極的に生の甘受を望んでいるのかは疑問。
強い思いも年月が経てば磨り減っていく。
やがては風化を見せてしまう。
想いを消さないために自己暗示。
痛みを抱くほどに強く教えていなければならない。距離感を間違わないように。
安寧を壊そうというのだから、全て理解し、覚悟しなければならない。


食器を下げに来たテティスが不思議そうに「食べられなかったのですか?」とカノンに聞く。
軽く頷く。
胸がとても重苦しかった。
海将軍、残すはクラケーンのみのこの状態。
死刑宣告は間近。
そんな風に感じてしまう。
野望の成就まで後少し。
なのに、心は晴れない。
「食欲ありませんか……」と残念そうなテティス。
掛ける言葉が出てこない。
今までどう誤魔化していたのかも解らない。
「気にするな」と、取り付く島なく答える。
めげずに、なおもテティスは口を開こうとする。
カノンは無言で席を立つ。
気がついたようにテティスは非礼を謝った。
「気にするな」ともう一度繰り返すが声に温度はない。
怒っていると取られても仕方がない。
どうすればいいのか解らない。
今まではどうしていただろうか。

素早く食器を片すテティスに感じているのは苛立ちではないのに。
言葉が上手く掛けられない。
恐る恐る退室の挨拶をして下がるテティスに何とも言えない気持ちになる。
何を自分は恐れているのだろう。
テティスではない。
あんな少女を脅威になんて思ってはいない。
では、ポセイドンだろうか。
罪の発露を恐れている。
まさか。今更、騙し通せはしないと断罪に怯えるものか。
勝つ気でやっている勝負に負けた時の考えなんて馬鹿げている。
負ける時ですら、華々しく散ってこそ人生。
恐れなんてない。
ならば、どうして拒絶しなければならない。
怖いから触れないんだ。
地上にいた時と同じように。
触れられないのは、拒絶は、怯えからだ。
何を畏怖する。
自分よりも強いものなど、それこそ神ぐらいだと言える。
そして、神を騙し通す自信はある。
怖いものはこの世界にどこにもない。
もう捨てられたから、これ以上捨てられない。恐怖はない。悲しみもない。


ノックの音に思考をカノンは断ち切る。
応じる間もなく乱暴に開けられた扉からソレントが入ってくる。
勢いよく開いた口がカノンを見て止まる。
一瞬、逡巡したあと静かに瞳をカノンに向ける。
真っ直ぐ受け止めることが苦痛でカノンは知らずに目をそらす。
言葉を飲みこむようなソレントの表情が少し見えた。
神経質な足音を響かせてカノンの前まで来る。
挑戦的に手に持っていた書類を机に投げつけるように置く。
睨む強い意思を持った瞳は不満と苛立ちと悔しさとが織り交ざって不透明な色彩。
いつもであればソレントを叱っただろうカノンは無言で机の上を見るだけだった。
絶望と失望と嫌悪がソレントを支配していくのを感じながらもカノンは何もしない。
できない。違う、やらない。
まだ、ソレントは何も言ってはいない。
けれども、言いたいことを止めているというのは既にわかっている。
いつものような吐き出すような罵倒すらない。
静かな空気。
悲しそうな眼差しは誰に対してものか。
ソレントは強く目を瞑ると「少しは食べて下さいね」と言って踵を返した。
「失礼しました」とも言わなかったけれど、扉は静かに閉められた。

心配、されたのだろう。
そんなことは分かっている。
テティスも心配していたのだ。カノンのことを。
二人とも言いたいことがあっただろうに口には出さなかった。
それが、優しさというものなのか。解りはしない。
生温かい仲間ごっこ。
けれど、必要な団結。
そこに本来は居られるはずがない自分。
中途半端な自分。
自分は自分を騙せない。
どれほど海龍を名乗ったところで不安は消えない。
借りものの位はいつでもすぐにひっくり返る。
たとえば、カノンがサガを名乗って、正体がバレてしまったと仮定するように容易く。
海将軍が殆ど揃った。
みんな仲良くやっている。
それは海界の強みだ。
いいことだ。
望みがより手の届くところに来る。
綺麗ごとを並べ立てそれを信じ込みついてくる愚か者を駒とする。
思い描いた通りの予定。
どこにも自分の落ち度はない。
順風満帆。
だというのに、忘れた捨てた、地上にいた頃のような心地。
触れられない。
信頼関係を作っていき、仲良くやっている海将軍達に触れられない。
眩しくて。
混ざれない。
そこには自分の居場所がない。
いつかの過去でつきつけられた事実のように、自分の居場所はないのだと片割れの笑顔で思った。
溜め息もつけない空虚。

音がした。
自分の気配のなさを。自分の存在のなさを。自分の生き汚さを。肯定するような音がした。
低音の耳鳴りのようなソレはいつの頃からかカノンに優しく鳴り響く。
いつの間にか傍らに移動していた己の鱗衣。
「海龍」と名を呼ぶことも出来なくて、手を伸ばせばすぐに触れられるのにカノンは動けないでいる。
気落ちするように見える鱗衣に首を振る。
全ては都合のいい錯覚だ。
自分だけに優しいを夢を見るな。
視線を机の書類に向ける。
さり気なくクリップで止められたメモ。
置かれてすぐに気がつかなかった己に自嘲する。
「明後日までで構いませんから、休んで下さい」とソレントの字が目に入る。
消されていたようだが筆跡が強いためかイオのものだと思われる「1週間ぐらい休んでOK!」との言葉。
苦い笑みが自然な笑いに変わる。
再度上がった鳴き声に海龍の鱗衣を見る。
心なし嬉しそうにカノンを見上げる。
全ては勘違いなのだと、胸の内で何度繰り返したことだろう。
その度に去来する痛み。それに名前はつけられない。

手でメモを弄ぶ。溜め息と苦笑と他の感情を混ぜながら。
そして、唐突に気がつく。
境界線を引いていたのは自分だった。
本当は理解している。
どうして辛いのか。
どうして拒絶するのか。
どうして触れられたくないのか。
どうして触れないでおいてくれるのか。
けれども、答えを出してしまっては歩けなくなってしまう。
望みのために全てを犠牲にするのだから情けなんていらない。
誤魔化しいい聞かせ、触れないふりして歩いていく。
襲い来る感情の濁流に押し流されそうな日もある。今日とか。
耐えて行けば、きっと望む未来が手に入る。
そのためだけに、ちゃんと生きないと。

生きるために休もうとカノンは決める。
仮眠はソファーで十分だと結論付けた。
着いてくる海龍の鱗衣を一瞥する。
想いが伝わったのか、ピタリと止まり不満げな気配。
結局、呼びも触れも出来ない。
自分の弱さなのだろうとカノンは横たわり目を閉じる。

触れられない光景が目の前にあって、差し出された手は見えなかった。
今更それに気がついた所で、触れようと手が伸ばせるはずがない。
初めから触れないと決めてしまっていたから。
触れたいと思っても触れ方が解らない。
拒絶のなんて楽なこと。

引いた境界線に気付いても、壊せないなら同じこと。
知らなければまだ、幸せだったかもしれない。
緩やかに訪れた睡魔に今日の記憶を押し流してくれることを頼んだ。





2006/07/12

海界top





あとがき

こういう日もある。


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