彼方の思い
思い出話などを、写真を見ながら語る声に耳を傾けながら、イオは別のアルバムにも目を走らせていた。
こうして昔の姿を残せて置けるのだから便利だなぁ、と思いながらページを捲っていたが、その時後ろから物騒な気配を感じた。
「お前ら・・・何をやっている・・・」
低く押し殺したような声が、はっきりとイオの近くで聞こえる。
その声には聞き覚えが有りすぎて、イオは思わずそのまま固まった。
「・・・えーと、海竜・・・?」
ゆっくりと首を動かして視線を上げれば、そこには思っていた通り、怒りを纏ったカノンが立っていた。
「これは、何だ?」
じろりと睨みながら言われても、イオは喉奥で言葉が凍って出てこない。
「・・・ええっと・・・」
叱られると分かっていただけに、イオは言い訳でも出来ずにカノンを見るだけだった。
そんなイオの手からカノンがアルバムを取ると、ちらほらとカノンの姿に気付いた何人かがカノンに視線を向ける。
「海竜様!」
カノンの一目で怒っている姿に、テティスは肩を竦めた。
だがソレントはせいぜい、居たのか、ぐらいの感じでカノンを眺めた。
「海竜、仕事は終わったのですか?」
「それはお前らに言いたい台詞だがな」
「今は休憩中ですから」
しれっとして答えるが、もちろん休憩時間を取り過ぎている事は明らかだ。
だがそこに厭味を言うだろうと思っていたカノンの視線は、とっくに元凶であろう人物に向けられていた。
「ロス、お前だろう! こんな事をしたのは!」
最初から名指しで確信するなんて、間違ってたらどうするんだと、バイアンやアイザックは心の中で突っ込む。
だが確かに黄金聖闘士たちの昔の写真を持っているのは、この中ではアイオロスぐらいなものだが。
アイオロスは苦笑しながら頷いた。
「まぁ、そうだ。写真を皆に見せたのは私だ」
「勝手に・・・!」
今にもカノンが怒りを爆発させようとした寸前、テティスが立ち上がった。
「海竜様、違います! テティスが頼んだんです!!」
「お前が?」
出鼻をくじかれたせいか、カノンは気の抜けたような表情を浮かべ、問い質す。
「はい。昔のお写真を見せて下さいって」
「・・・何故そういう事を・・・」
「だって、海竜様の昔のお写真を拝見したかったんですもの」
カノンの叱責に、テティスはあからさまに肩を落としていた。
その様にカノンは溜息を吐き、とは言えこのまま繰り返されても堪らないと尚の事言葉を続けようとした。
「だからと言って勝手にだな」
「カノン」
柔らかく、それでいて凛と響く声に、カノンの言葉が止まった。
緩く瞬きをし、視線を声のした方へと向ける。
そこでようやっとカノンは、アイオロスの影に隠れるようにして沙織がいた事に気付いた。
何時もならば気付かないなど有り得ないが、目の前の事態に動揺したのか、それともこんな所に沙織がいる筈もない先入観が働いたのかもしれない。
だがカノンは沙織の姿に、顔色を変えた。
「あ、女神! 何故こんな所に・・・」
だが沙織は質問に答えず立ち上がると、そのままカノンの目の前に立った。
「カノン、やはり怒っているのですね」
「女神。いえ、それはその・・・」
今まさに怒りを爆発させようとしていたカノンだったが、まさか沙織に怒鳴る訳にもいかないし、カノンもその気はない。
自然とカノンの口調も歯切れが悪くなる。
だが沙織は、そんなカノンの困惑した表情をひたと見つめた。
「でも私は昔の貴方を知りません。それを知りたいと思ってしまうのは、いけなかったでしょうか」
「そんな事はございませんが・・・。それ程お気に掛けて頂く事では」
何と言って良いやら、という体のカノンだったが、この言葉に沙織は表情を輝かせた。
「ありがとう、カノン! では、今度は貴方の話を聞かせてもらえますね?」
「は?! い、いえ、女神。それは・・・」
うろたえるカノンに、沙織は瞳を潤ませた。
「貴方を聖域で失ってから、貴方が海界でどのように過ごしたのか、私は知りません。色んなことがあったでしょう」
「それはまぁ・・・」
主に神を誑かし、周囲を騙していたのだが。
しかしそのまま言う訳にもいかず、カノンはどうやってこれを切り抜けたら良いのか、幾分空回る頭で必死に考え出した。
だが沙織は瞳を伏せ、表情を曇らせた。
「アイオロスから貴方の聖域の話や、テティスから海界での話を聞いている内に、貴方も少しは自分らしくあれたように思えますけれど、それでも貴方にそのような日々を送らせた我が身の至らなさが口惜しい」
「女神! そのような勿体ない事を!」
沙織の発言に、カノンは目を瞠る。
そんな事は決してないと、カノンは必死で沙織を宥めだした。
目の前でカノンが沙織に頭の上がらない様をじっと眺めていたイオは、ぽつりと呟く。
「海竜・・・。本当に女神には弱いんだなぁ・・・」
仕えるべき海皇にすら、此処までの気遣いをした事があるのか、疑ってしまうほどだ。
「女神には命を救われたと感謝しているのだろう」
アイザックが冷静に指摘するが、ソレントは物言いた気に眉を顰める。
「とっくにそれを返すぐらいは、冥界で働き終わったと思いますけどね・・・」
「海魔女!」
ソレントの地雷的な発言に、バイアンが慌てて小声で叱責した。
「女神、そのようにお心を私如きで煩わされますな」
微苦笑を浮かべながらカノンが宥めれば、沙織は瞳を真っ直ぐにカノンへと向ける。
「それでしたら、安心させて下さい。ですから・・・ね。カノン?」
表情に笑みを戻した沙織の言葉に、カノンは我に返った。
「いえ、女神。何もお話するような事など!」
「そうですか? それでしたら、今の仕事の苦労話でも構わないのですよ? 我侭な何処かの神のせいで、大迷惑だとか」
小首を傾げながら沙織は悪戯っぽく言うが、我侭な何処かの神が一体誰を指しているのか分かっているだけに、カノンは絶句した。
「あ、女神・・・」
当たり障りのない話だけで切り抜けられるだろうかとカノンが覚悟を決めかけた時、苦々しげな口調の少年の声が辺りに響いた。
「勝手に苦労話を捏造しようとするな」
その声を聞いた瞬間、沙織の表情が一変した。
笑みは浮かべているが、気配が物騒な色を纏いながらざわめきだす。
その様変わり振りにカノンは目を瞠るが、それも当然かもしれない。
部屋に入って来たのは、盟約の相手でありながらも日頃から意見が合いそうにもない海皇であったからだ。
特にカノンに関しては、二人の意見は決して交わろうとはしなかった。
沙織は目元は鋭く、だが口元だけは笑みを作ると言う器用な事をしてのけながら、憮然とした表情をしている海皇に視線を向けた。
「あら、伯父様。海界にお帰りになられたのではありませんの」
だが乱入してきた海皇は、沙織の言葉を鼻で笑った。
「海竜がいるのに、帰る訳がなかろう。どこぞの誰かに誑かされては一大事だからな」
「あら、どなたかしら?」
分かっていながら、白々しく沙織は言ってのける。
海皇は眉間に皺を寄せながら、呆れたように言った。
「それで海竜が苦労している事が分からぬか」
「会議中にずっと退屈だと仰って、カノンに注意されるような態度を取られる方の方がよっぽどカノンに苦労を掛けていると思いますけれど」
典雅な仕種で口元を覆いながら笑う沙織に、海皇の気配が黒くなり始める。
だが表情だけは笑みを浮かべているだけに、空恐ろしい。
そんな二柱の様子を見ながら、カノンに言わせて見れば、今この状況こそがカノンにとって苦境以外の何ものでもないと思った。
顔を合わせる度にこんな事をしていて、飽きたり馬鹿馬鹿しいと思ったりはしないのだろうか。
だがそんなカノンを他所に、沙織と海皇は口調だけは取り繕われた棘だらけの言葉で応酬を続けていた。
「大体そなた、海竜の過去を知りたがっているようだが、加護はどうした? そのような事も知らぬままで、よく海竜を聖域に迎え入れようなどと思ったものだな」
「あら、伯父様。過去に拘らずとも、互いを理解していれば宜しいのですわ。そして、このような機会に私とカノンはお互いを理解していくのです」
互いに一歩も引く様子はなく、そのまま互いの神気で辺りの空気が震えている。
しかし、そんな事にすら気付く事なく睨み合いを続けるのだった。
「取り敢えず座ったらどうだ? 女神も海皇も、当分あのままだろうから」
呆然と意識を彼方に飛ばしていたカノンは、アイオロスの声と同時に腕を引かれて、椅子を勧められた。
「ロス」
「まさか海皇まで飛び込んで来るとは思わなかったな」
同意を求めるように言ってくるアイオロスに、カノンは言葉もなく頷いた。
それを横目で見ていたソレントが、貴方が女神を呼んだからでしょう、とアイオロスに視線で訴えかけていたが。
それよりも、この状況下で平然としているアイオロスの態度の方が、カノンには余程驚異的であった。
「お前、よく平気だな」
「何がだ?」
笑顔で軽く聞き返すアイオロスに、本当に何を持って平気なのか分かっていないだろうとカノンは実感する。
そして無邪気に話しかけてくるテティスも。
「射手座様。こちらのお写真も拝見しても宜しいですか?」
「ああ、構わないよ」
承諾の返事に、テティスは嬉々としてアルバムを手に取る。
その表情は何時もと変わりなく、傍で守るべき神の気配がどす黒くなっている事も気にしていない。
何時もの事で、すぐに免疫が出来たのかもしれない。
そんな二人がつくづくカノンは羨ましかった。
実際、バイアンもイオも表情を強張らせ、ソレントですらも視線を外せないでいた。
アイザックは淡々としているが、かと言って様子を伺いもせずに放っている訳でもない。
この神の争いは何とかならないものかと、己が原因であると知っているだけに、カノンは深い溜息を吐いた。
そんなカノンの目の前に、アルバムが突きつけられる。
思わず仰け反り、だが視界一杯に広がった写真が、過去を強く思い出させた。
「ほら、カノンも懐かしいだろう?」
そうした張本人であるアイオロスが、アルバムの向こうから笑う。
その笑みに肩の力が抜け、カノンはアルバムを手に取りながら微笑んだ。
「ああ、そうだな。懐かしい・・・」
ほとんどカノンの知らない世界の事が、そこには残っていたけれど。
話に聞いた過去が、こうして形に残っている事は不思議だった。
幼いながらも、今の面影を強く残した者たちがそこに写っている。
「本当に・・・懐かしい」
目元を和ませたカノンの気配が和らいだ事で、タイミングを計ったのかどうか分からないが、テティスの無邪気な声が響いた。
「射手座様。こちらの写真は、焼き増ししてもらう事は出来ませんか?」
うっとりとした瞳のまま、はにかみながらテティスはカノンの写真を指差す。
「テティス!」
テティスの発言に慌てて声を上げるカノンを見ていながら、アイオロスは微笑んで頷いた。
「そうだね、ネガを探してみようか」
「ロス!!」
何を言い出すか、と睨みつける後ろで、イオの声がした。
「あっ、俺も欲しい!」
さっきまで青ざめていたのは誰だ、と言いたいほどの速さで、イオは振り返り自分もと訴えている。
だがソレントもイオの声で我に返ったのか、イオを見上げた。
「え? 焼き増し出来るのですか?」
「テティスが今頼んでた!」
「ネガがあれば、と言っていたぞ」
やはりどちらの会話も冷静に聞いていたのか、アイザックが早とちりしているイオに突っ込む。
「だから、ネガがあれば出来るんじゃん」
「あればな」
争って膠着状態に陥っている海皇と沙織を置いて、すっかり別の話題で盛り上がり始めているイオたちに、バイアンが視線をカノンに向けた。
「宜しいんですか?」
てっきり怒りだすだろうと思っていたカノンが大人しい事に、バイアンはカノンに本当に良いのかと尋ねる。
だがカノンは遠い瞳のままに、疲れた顔で引き攣った笑みを浮かべた。
「ああ。もうお前達は見てるんだろう、どうせ」
「はぁ・・・」
すみません、と口の中で謝るバイアンに、カノンは一段と荒れる気配から視線を逸らした。
「・・・あのお二方の争いに比べれば、随分と大人しいものだしな」
「そうですか」
だが今は感覚が麻痺しているだけで、きっと後で自分の発言を後悔する事だろう。
此処はやはりフォローに走るべきだろうかと思いながらも、バイアンも写真を眺めた。
「まぁ、何枚かは良いかもしれないが」
全部を諦めてしまうのは、確かに惜しいかもしれない。
そう呟くバイアンに、アイオロスも笑いながら頷く。
「そうだね。多分、何枚かのネガは残っていたと思うよ」
「何枚かはですか」
その表情と笑みで、残っていたとしても、全部のネガを出す気は最初からなかったのだとバイアンは気付いた。
それは、そんな事をされたくないカノンの為なのだろうが。
確信犯的な行動が多いな、この人、と内心でこっそりと呟く。
相変わらず、聖域の次期教皇は侮れないと思った。
2006/04/16
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月埜硝子さんのサイト水と月の華(別窓で開きます)
の11万ヒットに「海闘士とアイオロスがカノンの話をしている」というキリリクをしました。
見事過ぎるほどにツボです。
海闘士はいいなぁ。みんな仲良し。
アイオロスとテティスは本当に仲がよくて和みます。
沙織さんもポセ様も出て、とっても豪華で嬉しいです。
ラストのアイオロスの心情を察したバイアンがとても好き。
月埜さん、素敵なお話を本当にありがとう御座いました。